タロットリーダー協会@みさきのゑです。
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火曜日は
OSHO禅タロット
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【カードの意味】
もっとも低次の愛はセックスであり
それは肉体的なものです。
もっとも高い愛は慈愛。
慈愛は愛を超えます。
愛が何であるかわかっている人は極めて少ない。
残念なことに99%が性的関係が愛であると思っています。
それは違います。
性欲は、動物的なものです。
それは愛になる可能性がありますが、
本当の愛ではありません。
それに気づくことができたら、
セックスを愛に変容することができます。
セックスは種。
愛は花。
慈愛は香りです。
ブッダは慈愛を「愛と瞑想」と定義しました。
あなたの愛が
ただの欲望ではなく、
愛がシェアされ、
愛が願いではなく、
皇帝の愛であるとき、
愛が見返りを求めていないとき、
与えることの純粋な喜びのために
与える準備ができたとき、
愛に瞑想を加えると、
純粋な香りが放たれます。
それは慈愛です。
慈愛はもっとも高い現象です。
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慈愛はもっとも高い現象です。
慈愛とは、、、
無条件 → どんな相手でも受け入れる
見返りを求めない → 与えること自体が喜び
エゴを超えて最高の次元に達した愛の表現が慈愛。
「愛と瞑想が合わさったものが慈愛」
OSHOの言う「瞑想」とは
一般的な「目を閉じて座る」瞑想だけではなく、
日常生活の中で常に「気づいている」ことが瞑想です。
今、何を感じているかに気づいている
何かをするとき、意識的にやる(食べる、歩く、話す)
思考や感情が暴走しそうになったとき、それを客観的に見つめる
自分自身の意識状態に気づいていることが「瞑想」とされます。
気づきがない愛 → ただの感情、所有欲、依存
気づきのある愛 → 見返りを求めず、自由で純粋な愛(慈愛) つまり、瞑想(気づき)によって、
愛は低次から高次へと変容する ということです。 瞑想とは、気づき(awareness)のこと
瞑想とは、特定の行為ではなく、意識のあり方
愛に気づきを加えると、愛は「慈愛(compassion)」になる
瞑想がない愛は、エゴや所有欲に引っ張られがち
だからこそ、瞑想=気づきのある愛の状態 が
「高次の愛」につながります。
他者に対して思いやりを持ち
穏やかな心をもって接しましょう
ダライ ラマ
OSHOの言う「慈愛」は、
「どのような意識で愛を与えているか」が大事。
たとえば、誰かをケアしている場合
義務感や自己犠牲でケアしている→ それは「献身」かもしれないが、高次の愛ではない
相手を思い、自然にケアすることが喜びになっている → それは高次の愛に近い
見返りや評価を求めず、ただ愛を与えることができる → これは「慈愛」と呼ばれるもの
つまり行為ではなく、心のあり方がポイント
義務感でやっていることは、
相手にちゃんと伝わります。
受け取る側も罪悪感を感じたり、
気を使ってしまいます。
これだけやってるんだから、
優しくしてほしい!
こうなると、慈愛とは遠ざかってしまいます。
義務感が悪いか?ということではなく、
義務感をどう変えていけるか?
「本当はどうしたいのか?」
「義務」ではなく「選択」に変える
「私がやると決めたからやる」
本当はやりたくないけど、やると決めたなら、
少しでも気持ちよくやれる方法を模索する。
自ら選んでやっていると思うだけで、
気持ちの負担は減ります。
「義務感しかない」なら、
無理をせず、一度距離をとることも必要かもしれません。
でも、「少しでも愛や喜びを見つけられそう」なら、
その方向に意識を向けてみましょう。
昨日は急遽、20数年前、
一緒に過酷な仕事をこなしていたときの
同僚たちと久々に逢うことになりました。
というのも何年か前にメンバーのひとりが
難病にかかり、車椅子生活をすることになったことを
友人たちから聞いていたので
彼女が自ら会いたいというタイミングを待ってました。
以前、共に働き、遊んでいた友達が、
突然、動けなくなる、、、
数年間、病名もわからず、
合う薬も見つからずに大変だったようです。
ご主人が在宅でお仕事しながら、
身の回りの世話をされていました。
30代後半から
子育てをしながら、
大変だったんだろうなと
思わされることが多々。
いろいろ考えさせられました。
やはり健康であるって、
当たり前ではない。
そして意識の持ちようについて考える。
やってあげている、
やらなければならない、
やってもらって当たり前、
やってもらって申し訳ない、、、
これをどう変えるか。
当事者になったら意識について
鑑みる余裕はない。
余裕があるうちに意識を整理しておくことが大事かと。
自分に余裕がなければ、
周りや行政を頼る必要があるし、
自分の時間を作ることも必要。
すべてを完璧にできることはない。
この仲間たちと仕事していた時は、
インターネットがやっと普及してきた頃で、
SNSがない時代。
個々で連絡はしていても、
みんなで会うことはなかったので、
彼女のことをきっかけに、
みんなで集まることになり、
SNSで繋がった。
ここでまたひとつ考えが巡る。
「仕事仲間は友達なのか?」
毎日顔を合わせていると
「親しい気がする」ものです。
でも、それは「環境によって生まれた距離感」であって、
必ずしも「本当の友情」とは限りません。
仕事以外でも連絡を取りたいか?
仕事を辞めても関係を続けたいか?
大事なことは
一緒にいて楽しくて、
楽しい時間を共有できたり、
何気ない会話でも心地よい人だったり、
会話がなくても気まずくない。
厳しいことも言えるし、
遠慮せずに、本音を話せる人で
無理せず、自分らしくいられて、
住む場所や仕事が変わっても、
連絡を取り合いたいと思えたり
しばらく会えなくても、
会えば自然に話せる人も大事だなと。
ということに気づいているか?
ということ。
友達の定義については、
以前、還暦パーティに誰を呼びますか?と
聞いた時、
「友達って何?」と聞かれ考えました。
とある友人は、友達には見られたくないと、
癌で闘病していることを明かさず、
亡くなってから友人を介して訃報がきました。
友達だからこその気遣いなんだろうなと。
いろんな選択がありますね。
日常生活から気づくことを意識しないとですね。
あなたもHAPPYな1日を




